読むと言う行為は構成と計算からなる

以前の記事で理化学研究所が“将棋プロジェクト”で頭頂葉が活発に動作していると書いた。
頭頂連合野は各感覚情報が集まって、身体の空間知覚を認識し運動知覚を育む場所でもある。
どういう事かと言うと、我々の5識(眼・耳・舌・身・意)を1次感覚野から経路を経て、それらが統合され意味づけし、それによって様々な計算する事によって、我々の動作が担保されているという事だ。

将棋には8種の駒があり、それを夫々我々が元から持っている身体の情報に置き換え、我々の身体を動かす如く駒の配列を計算する事が読みという結論に繋がっている。
8種の駒は夫々役割が決まっており、我々の身体の種々の部位も夫々に役割が決まっていて、その役割を経験則で働かせる役割を担うのが頭頂連合野であって、その身体部位が経験則で働く事を応用して読みに繋がっている。
詰り、将棋を読むと言う行為は、元々経験則としてある我々の身体を動作させる計算値を応用して行われているに過ぎない。

では囲碁の読むと言う動作はどう担保されているのであろうか。
囲碁の場合、我々の身体がDNAによって担保された細胞の識別と同じく白石と黒石しか無いので、身体と比する事が困難である。
しかし、囲碁の場合打っていると出来てくる厚みが先ず出てくる。

囲碁のルールには、人間と同じく自殺厳禁というものがあって、人間が普通に考えて打てる存在理由がそこにある。
更に、囲碁には桂馬飛び、大桂馬飛びや更には大々桂馬飛びというような身体の動きを計算する時に通って来た経路を生かせる場面が数多くある。
詰り、囲碁には将棋の駒と違って自然発生的なオブジェクトが数多く存在して、それが読みを支えていて覚えれば囲碁が好きというのはそういう一面があるようだ。

将棋には無限の展開があると、高段の棋士はよく言うが、囲碁にはもっと無限さが奥深いと感じている。

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